◆3匹の野良犬との対決
泰緬鉄道の列車が通り過ぎた後のクウェー川鉄橋駅。線路のレールの間には猫がねそべっていた。次の列車が来るまで、何時間もあることを知っているのだ。のんびりしたものだ。
物欲しそうに昆虫記者を見つめるネコ
何ももらえないと分かると、ふてくされて寝そべってしまった。
猫の獲物にちょうど良さそうな可愛い鳩
とりあえず、3匹の犬の後をついて、ゆっくりと橋の上を進む昆虫記者。対岸の緑生い茂る河川敷には、いろいろな蝶が飛び交っている。早く行って写真を撮りたい。だが、足は前に進まない。なぜ急がないのか。それはもちろん、犬が怖いからである。野良犬は大の苦手なのだ。
「振り向かないで」と願っていたが振り向かれてしまった。
たかが野良犬と思う人もいるだろうが、歯をむき出して襲ってきたらどうする。ここは逃げ場のない橋の上だ。噛みつかれたらどうする。鉄橋から川に飛び込むしかないではないか。犬たちの機嫌を損ねないよう、まるで犬の存在に気付いていないかのように視線を空に向けながら、のんびり歩く。軽快なリズムのクワイ川マーチを鼻歌で奏でながら。
◆絶体絶命のピンチ
クワイ川マーチと言えば、言わずと知れた名作映画「戦場にかける橋」のテーマ音楽である。クウェー川鉄橋建設のため捕虜として過酷な労働を強いられた英国兵士らの口笛が印象に残っている人も多いだろう。だが、舌の短い昆虫記者は悲しいことに口笛が吹けないので「ピピッ、ピピピ、ピッピッピー」とはならないのである。鼻歌では「フフ、フフフ、フフフーン」と気の抜けた音になってしまう。しかし殺人野良犬は容赦しない。しかも3匹。彼らが振り返り、おかしな日よけ帽子をかぶって変な鼻歌を歌う男にほえかかってくる。おびえ切って防護柵にしがみ付く男。もはや絶体絶命だ。「ギャー、助けてくれ」。
しかし、野良犬たちは突然興味を失い、3匹連れ立って対岸へと足早に去っていった。昆虫記者は、防護柵からゆっくりと手を放し、醜態の現場を誰も目撃していないことを確認すると、再び鼻歌を歌いながら、蝶の待つ対岸へと向かったのであった。
◆線路上を歩ける鉄橋
クウェー川鉄橋駅の周辺は、レストランや土産物屋で賑わう。ここは一大観光地なのである。観光資源は「戦場にかける橋」で有名なクウェー川鉄橋と、その下を緩やかに流れるクウェーヤイ川である。
映画では、爆破されて木っ端みじんになったはずの橋は、今も立派にそびえ立っている。空爆で一部が破壊されたが、すぐに再建されたようだ。そして、この橋は、列車に乗って渡るだけでなく、歩いても渡れるのである。
列車の鉄橋の上を自由に歩けるというのがすごい。2本のレールの間を歩けるのである。日本では考えられないことだ。なにせ、1日に3往復しかない列車だから、列車が通る時以外は、歩道橋になるのだ。途中には避難場所もあるから、列車が来ても大丈夫。と言うか、列車が来たら超ラッキーということだ。だから列車が来る時間に合わせて、橋を渡る人もいる。
列車が来た時に鉄橋上の観光客が避難するスペースが設けられている。
日本の鉄ちゃんたちにとっては、夢のようなことだ。日本では、関係者以外が、踏切以外で線路の敷地内に入ることは犯罪になりかねないのだ。鉄道営業法違反になる。「無断で線路内に立ち入るべからず」。最近も芸能人が線路に立ち入って写真を撮り、ブログにアップしたとかで、書類送検される事件があった。線路内に立ち入るマナー違反の撮り鉄が問題になることも多い。だが、泰緬鉄道では、線路内を歩くことが観光の目玉なのである。泰緬鉄道をめぐる団体ツアーでは、たいていクウェー川鉄橋や、タムクラセ(アルヒル)桟道橋の線路上を歩く時間が組み込まれている。線路わきに設けられた避難場所から、通り過ぎる列車を撮影し、乗客に手を振るのが、旅のハイライトなのである。何と素晴らしい鉄道なのだ。
鉄橋の防護柵のうち、弧を描くアーチ状のものは戦時中のままで、直線的な防護柵部分は戦後に修復されたものらしい。直線的な柵には、yokogawa brdgeの文字。これも日本製ということだ。
それで、虫撮りはどうなったのか。もちろん、忘れてはいない。
鉄道ファンに多少すり寄っても、魂までは売り渡しはしないのだ。鉄橋駅から橋を渡った先の河川敷には、いい感じの緑が広がっている。森の間に林道が幾つも通り、草原も点在している。これは、かなり良い昆虫環境だ。
そして、なかなか良い虫たちが、そこで待ち構えていた。まずはハレギチョウ。いつ見ても、美しい。戦場に散った兵士たち、過酷な労働で倒れた連合軍捕虜たちも、このチョウを眺めて、悲惨な戦争を一瞬だけ忘れることができたかもしれない。
日本ではハレギチョウ、英語ではレースウィング。晴れ着のような色合いと、レース編みのような周囲のギザギザ模様が特徴。
スジグロカバマダラも多い。スジグロは東南アジアのどこでもよく見かけるのだが、黒い筋のない、ただのカバマダラの方はなぜか、これまでほとんど見たことがなく、写真は一枚も撮れていなかった。そのカバマダラもここには、何匹か飛んでいた。どちらも体内に毒をため込んでいるという。
◆ツマグロヒョウモン♀の擬態のお手本
これに擬態して、身を守っていると言われているのが、東京周辺でも繁栄を極めているツマグロヒョウモンのメスだ。確かによく似ている。どちらかと言えば、スジグロでない、ただのカバマダラの方に近い模様だ。だが、カバマダラがいない東京でもツマグロヒョウモンは急増しているから、擬態説もちょっと怪しくなってくる。擬態なんかしなくても、十分繁栄していけるのではないか。
ツマグロの都会での繁栄は、パンジーなどスミレ科の園芸種を幼虫が食べまくっているためとも言われる。つまり、都会への適応能力が高かったのだ。南国の美しい蝶への擬態は、虫捕り少年に襲われる危険を高めるだけで、東京では逆効果ではないかと思われる。 ドクチョウの仲間のヘリグロホソチョウもゆったりと飛んでいる。こいつらも、毒を体にため込んでいるので、ゆったりと飛ぶのだ。食べたらまずいよ、と広告しながら、飛んでいるのである。
見るからにドクチョウの仲間といういで立ちのヘリグロホソチョウ
◆上空から昆虫記者をバカにするキシタアゲハ
川が近いのでトンボも多い。以前オーストラリアで出会ったスキバチョウトンボもいた。羽の付け根の黄色の模様がおしゃれである。
真下から見上げたスキバチョウトンボ。斑紋の部分だけ見ると、小さな蝶に見える。
そして、ワシントン条約の保護対象の大きなチョウ、キシタアゲハがたくさん飛んでいる。しかし、とんでもない高い木の上をかすめていくのだ。全く写真にならない。やつは、昆虫記者が列車に乗っている時も、せせら笑うかのように、車窓すれすれを飛んでいた。今回の旅では、キシタアゲハには馬鹿にされ続けた。いつか徹底的に報復してやらねばならない。
昆虫記者をあざ笑うように、はるか上空を旋回するキシタアゲハ
◆地雷のように仕掛けられた牛フン
◆地雷のように仕掛けられた牛フン
虫好きが上を向いて、チョウの姿を追っていると、足元の危険に気付かず、痛手を負うことがよくある。穴に落ちて足をくじいたり、石につまずいたりはしょっちゅうだ。そして、今回待ち受けていた重大な危険は牛のフンである。大きいものは直径30センチはあると思われる。
こんな素敵な河川敷の風景の中に、危険が潜んでいる。
草原の中に絶妙に配置された牛フン。
この河川敷には、水分たっぷりでベチョベチョの平べったい牛フンが、あちこちに地雷のように仕掛けてあったのだ。一つめ、二つめは難なくかわした。そして三つめが危なかった。ぎりぎりのところで、脳内の衝突回避機能が作動し、円形のフンの外周部分をわずかに踏みしめただけで、大事には至らなかった。
それでも、足裏の感触はぐんにゃりと、気持ち悪い。もし直径30センチの中心を踏み抜いていたらと考えると、恐ろしい。そこで、つるりと滑って、尻もちをついたりしたら、大惨事だ。帰りの列車に乗ったら、周囲から臭いもの扱いされるだろう。一体誰が、こんなところで牛を放牧しているんだ。訴えてやる。
ベニモンアゲハはジャコウアゲハに近い仲間なので、赤い胴体が毒々しく美しい。
たぶんメスシロキチョウ。こういつ草原の蝶に気を取られていると、牛糞の地雷に気付かない。
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いつまでも高い樹上を見上げ、キシタが下におりてくるのを待っていたが、だめだった。そして、あっという間に帰りの列車の時間に。再び橋を渡って、駅へ向かう。さすがに昼近くなったので、観光客が多い。橋の上は、繁華街の歩道橋のようになった。もはや野良犬が渡れる場所ではない。 観光客でごった返す昼時のクウェー川鉄橋
駅で列車を待つ観光客
20分遅れで列車がやってきた。
通り過ぎる列車に手を振る幼児。将来の強力鉄ちゃんの素質がありそうだ。
駅で帰りの切符を買う。100バーツだ。どうせ列車は大幅に遅れるのだろうと思っていたら、たったの20分遅れでやってきた。すばらしい。タイ国鉄もきっと、心を入れ替えたのだろう。