◎サイヨーク、エラワン、泰緬鉄道の虫旅⑧
6月20日水曜
◆地獄の炎に焼かれる昆虫記者
ナムトック・サイヨークから先も、かつての泰緬鉄道は続いていた。しかし今はここで線路が途絶えている。
ジャングルの中に消えてしまった鉄道。かつて線路があった深いジャングルの中を、秘境の虫を求めてミャンマーまで歩いて行ってこそ、真の冒険であろう。だが、昆虫記者は探検家でも冒険家でもないので、そのような無謀な試みはしない。しかし、ちょっとだけそうした雰囲気を味わうことのできる、とっておきの場所があるのだ。
それはヘルファイアパス(地獄の炎の道)である。この恐ろしい名は、戦時中の捕虜たちの苦難の歴史を物語っている。泰緬鉄道の歴史を巡る旅ならば、ここを外すわけにはいかない。
「いつの間に、虫撮り旅が歴史の旅になったのか」と、いぶかしがる向きもあるだろうが、メインはもちろん虫である。ヘルファイアパスは、かつて捕虜として泰緬鉄道の建設に従事したオーストラリア人が保護を提案し、同国政府が資金を拠出して整備したという。このため、今も慰霊の催しに多くの豪州人が訪れており、切り通しの岩壁には豪州国旗や同国人戦没者の写真が多く見られる。つまり、ヘルファイアパスは鎮魂のための道なのである。しかし、ジャングルの中を通る道は、虫の通り道でもある。昆虫記者は、鎮魂の思いを胸に抱きながら虫を探すのである。
それに、ヘルファイアパスは、宿から一番近い観光地なのである。前日は早起きで疲れた。だから今日はのんびり朝食を食べて、近場観光だ。
ヘルファイアパス(コンユ・カッティング)は、博物館から4キロほどが公開されている。岩山の中に切通しを作るという、難工事。夜通しの作業で、かがり火が地獄の炎のようだったことから、ヘルファイアと呼ばれたようだ。
ただ虫を探して歩くだけでも、熱帯のジャングルの蒸し暑さは耐え難い。そんな場所で、過酷な労働を強いられた捕虜たちの苦しみはどれほどだっただろうか。この道がはるか、ミャンマーへと続いていたのだ。42年の6,7月にタイ、ビルマの両端から建設を開始し、1943年10月に完成したという。5年、6年はかかると言われた建設を1年ちょっとで完成させたのだから、すさまじい過重労働だったのだろう。この鉄道はミャンマーまで続いていたのだ。ジャングルの中を。
枕木一本、死者一人。ジャングルに残された枕木が、重みをもつ。連合軍兵士1万3000人、アジアの労働者8万人が、鉄道建設中に死亡したという。英、オランダ、オーストラリ兵の捕虜が多く犠牲になっている。足元を見ると、黒い大型のアリの行列。自らの体と同じぐらいの大きさの繭を運んでいる。ここで地獄のような作業を強いられた戦争捕虜の姿とダブって見える。
現在も線路が日常的に使われ、周辺に町や農地の広がるナムトック駅からクウェー川鉄橋までの区間と違い、ヘルファイアパスは樹林の中に枕木の痕跡が残るだけだ。それだけに、なおさら戦時を思い起こさせる空気が満ちている。
戦場にかける橋はフィクションであって、ウィリアム・ホールデンのようなヒーローが大活躍する物語は、実際にはなかったが、捕虜が置かれた過酷な環境は、映画以上のものがあっただろう。死者の数は、戦時中の日本の軍国主義の中に潜んでいた想像を絶する狂気を感じさせる。クウェー川鉄橋のようなメジャーな観光地ではないので、昼時でも人は少ない。よく整備された博物館周辺500メートル範囲の散策路より先は、昆虫記者以外誰も歩いていなかった。戦争の悲惨さ、平和のありがたみを噛みしめるには、この静けさがちょうどいい。
クウェーノイ谷を見下ろすビューポイントでは、落ちた果実に蝶が集まっている。薄曇りの谷に、さわやかな風が吹き抜ける。黄色地に黒の水玉模様の小さなハムシが目の前の草に止まった。驚かさないよう、そっと近づいて写真を撮る。
アジアの戦跡を巡る時、日本人は肩身が狭い。ジャングルの中の切通しには、ほかに人の姿はなく、静かだ。虫の音ぐらいしか聞こえない。虫撮りは馬鹿馬鹿しい趣味かもしれない。戦争はもっと馬鹿馬鹿しい。虫撮りとか、虫捕りとかやってる人々は、大日本帝国の非国民。精神的害悪を垂れ流し、戦闘意欲を低下させ、愛国精神を蝕む退廃的やからとみなされてしまうだろう。昆虫図鑑なんて、禁書にされてしまうかもしれない。もちろん昆虫記者のブログだとか、ツイッターだとかは即刻削除だ。
「いやだー、そんな時代は嫌だー。この平和なカンチャナブリ、平和なサイヨーク、平和な鉄道よ、永遠なれ。
戦争の悲惨な歴史。繰り返してはならない。想像を絶する数の戦争捕虜、現地で徴用した労働者の命が、鉄道建設で失われた。だが、今は、平和な風景が広がる。
何一つ世の中の役に立たない虫撮りではあるが、害も成さないという点で、平和的である。タイの虫、サイヨークの虫、そして戦跡のヘルファイアパスの虫を撮る。そして、いい写真であれば、もしかして誰かが「タイに行ってみたい。泰緬鉄道で旅して、なおかつ虫を見たい」などと思ってくれて、タイの観光業の発展に寄与してくれれば、非常に嬉しい限りだ。
博物館がただで提供している説明資料(なんと日本語版もある)を手にして、虫撮りに励む。戦争の悲劇を噛みしめながら、虫を撮る。しかし、あまり暑いと、時々資料のパンフをうちわ代わりにして、顔をあおいだりする。なんと不謹慎な。そんなやつは、地獄の炎に焼かれて、恐ろしい末路を迎えるだろう。
そしてやはり、地獄はやってきた。炎ではなく、豪雨だ。血の池地獄、水攻め地獄がやってきたのだ。ずぶ濡れになり、ぬかるみにはまり、最後は鉄砲水に流されるのだろうか。こんな慰霊のための場所に来てまで、虫撮りをしていたのだから自業自得である。
しかし、ここでも昆虫記者の悪運が発揮される。雨が降り出したのは、3キロほど散策路を進んで、2キロほど戻ってきた時だったのだ。ポツリ、ポツリと降り出した雨が豪雨に変わったのは、入口近くのコーヒーショップに差し掛かったところだった。
難なくコーヒーショップに逃げ込み、屋根を激しくたたく雨音を聞き、ひさしから流れ落ちる白い筋を眺めながら、優雅にアイスカフェオレを飲み、ヘルファイアパス訪問の感想をメモ帳に書き始めたのであった。「虫撮りなんてものは、とてつもなく平和な場所、平和な時代でなければ、存在を許されない道楽である。そんな道楽が許される今を大切にしなければならない。虫撮りは、世界平和の象徴なのだ」。実に身勝手な感想である。