〇ベランダのミカンに発生したアゲハは生きるべきか死ぬべきか、それが問題
都会にはナミアゲハが多いですね。ミカン、ナツミカン、キンカンなどの柑橘類が庭木や公園の木として植えられているからです。我が家の近くも、下町風の細い路地には、軒先から道路にはみ出すように植木鉢がたくさん並んでいる家が多く、その中にはたいてい1本はミカン科の木があります。
街中を飛ぶアゲハの姿は心安らぐもの。虫たちが生きていく空間がまだ、都会にも残されているんだなとホッとします。。
しかしそれは、アゲハが他人の家のミカンの木に卵を産む場合だけ。他人の家のミカンの木が、アゲハの幼虫に食い荒らされて、ボロボロになって、果ては枯れてしまっても、さして気になりません。たかがアゲハの幼虫ぐらいで枯れることはないだろうと、軽く考えている人もいるでしょうが、それは大間違い。
ちょっと気を抜いていると、数日間のうちに、アゲハ蝶は10個、20個ぐらいの卵を産み付けていきます。ミカンの木が大木ならばたいしたことはないかもしれませんが、路地のミカンはほとんどが、せいぜい2メートルほどの小さな木。卵や若齢幼虫ならともかく、終齢の大きな幼虫が、20匹も、30匹も発生したら、あっという間に葉はほとんどなくなってしまうのです。
自然が豊かなところでは、そんなことは起きません。寄生蜂、寄生蝿、イモムシを餌にするアシナガバチなどがうじゃうじゃいて、アゲハの幼虫を駆除するからですね。100個の卵の1%が成虫まで生き残れば御の字らしいです。
1匹のメスのアゲハ蝶が産む卵の数は、200個ぐらいらしいので、このうち2個以上生き残れば、♂♀同数だとすれば計算上生息数は維持されることになります。
しかし、都会では自然のバランスが崩れているので、アゲハも大量発生する年もあれば、非常に少ない年もあって、その天敵も安定発生しません。天敵が非常に少ない場合には、産み付けらたアゲハの卵のほとんどが、大きな終齢幼虫になるという自然界では考えられないことが、都会ではよく起きるのです。
話を元に戻します。例えアゲハの幼虫が大量発生しても、他人の家のミカンの木なら、ボロボロになろうが、枯れてしまおうが、気になりませんが、自分の家のミカンの場合は大問題なのです。かわいいアゲハも親のかたきのような憎き存在になるのです。
わが家はマンションの中層階なので、ベランダのキンカンに産卵されることは少なかったのですが、今年の夏はマンション大規模修繕で、地上の駐車場脇に植栽の移動を強いられました。このため、毎日のようにアゲハが飛んできて、卵を産んでいくのです。高さ1メートルちょっとの小さなキンカンの木なので、幼虫が10匹もいれば、すぐに裸にされてしまいます。
仕事が忙しく、数日放っておいたら、もう小さな幼虫が10匹も発生していて、かなり葉が食い荒らされていました。なるべく卵のうちに駆除してきたのですが、見落としがかなりあったようです。
卵を削り落とすのは、なぜかさほど罪悪感がありません。人の人工中絶とは全く話が違いますが、命という点は共通しているのかもしれませね。人工中絶にも妊娠22週未満でなければならないという制限があり、それ以降の中絶は堕胎罪に問われる可能性があるようです。
たかがアゲハですが、卵はともかくとして、幼虫を駆除するのは気が引けます。しかしわが家のキンカンが枯れるのを見過ごすのはもっと気が引けます。仕方なく、幼虫をプラ容器に保護し、近所の公園の大きなミカンの木から葉を拝借して、育てることに。
ただのナミアゲハです。小学生の自由研究じゃあるまいし、大の大人がナミアゲハを育てるなんて、生物学者でもない限り、普通は考えられません。
そして、幼虫は終齢になり、蛹になり、羽化。そうなると、なぜか寂しいのです。親心のようなものですね。子供が独り立ちするのは嬉しいはずなのに、なぜか悲しい。
「今度はわが家のキンカンではなく、ほかの家のミカンに産卵しろよ」と言い聞かせて、野外に放しました。