◎サイヨーク、エラワン、泰緬鉄道の虫旅⑩
◆忙しい朝、交互に食事と虫撮り
ホテルのレストランは、クウェーノイ川を見下ろす絶景の場所にあり、美女が手すりに寄りかかって川面を眺めていたりすると、見事な絵になる。もちろん、そういうシーンはホテルの宣伝用であって、現実はそれほど甘くないから、変な期待は抱かない方がいい。
しかし、朝食時のレストランのテラスでは、もっと素晴らしい、魅惑のシーンが展開されていた。テラスの木に赤い小さな花がたくさん咲いていて、そこに朝方、次々と蝶(チョウ)や野鳥がやって来るのだ。
新しい種類が飛んで来るたびに、食事はそっちのけで、カメラを抱えて飛び出し、写真を撮る。朝食時間はとんでもなく忙しいのだ。オムレツを口に運ぶと、きれいな鳥が飛んで来る。席を立ってパチリ。席に戻ってコーヒーを一口。ツマベニチョウがやって来て、また席を立つ。そんな連続である。極めて消化に悪い。
朝食の内容はビュッフェ形式だったり、アメリカン・ブレックファストだったりと、日替わりでなかなか充実していたのだが、その味を覚えていないくらい、虫撮りで多忙だった。これこそまさに熱帯のホテルのあるべき姿ではないか。テラスから見える風景が雑然としたビル街と渋滞の車列では、熱帯の地に来た意味がない。
しかし、昆虫記者のような落ち着きのないマナーの悪い客は、ホテルのスタッフには非常に迷惑である。食事途中で何度も席を立つので、食べ終わったのか、食器を片付けていいのかどうか分からず、スタッフは右往左往することになる。「早く消えてくれ」「二度と来るな」などと陰口をたたいていたに違いない。お客様に対して、大変失礼である。
ツマベニチョウがやたらと多い。ツマベニチョウは、シロチョウの仲間では最大で迫力がある上、羽先のオレンジ色が鮮やかで、いかにも熱帯的だ。
よく見ると、後ろ羽に黒い紋をちりばめた味のある模様のツマベニチョウが何匹か混じっている。これはメスの特徴だ。これまではオスとメスの違いを気に留めていなかったのだが、多数が群れ飛んでいると、違いが際立つ。
アナイスアサギシロチョウやシロオビアゲハもやって来る。一度だけキシタアゲハも来た。
タイヨウチョウという色鮮やかな鳥も常連だ。頭が赤いのはキゴシタイヨウチョウ、黄緑色の頭はキバラタイヨウチョウというらしい。鳥を見に来たわけではないのだが、色鮮やかな鳥たちがテラスに現れては、撮らないわけにはいかないではないか。これでは食事がちっとも進まない。
◆食卓の暗殺者
食事時に気を付けなければならないのは、暗殺者がたくさんいることだ。暗殺者は、レストラン屋外のテーブル周辺に多い。非常に危険である。
昆虫記者は重要人物であるから、その命を狙う者も多い。しかし、このホテルで必殺の一撃の標的となるのは、人間ではなくアリなどの小さな虫だ。残虐な無法者は「アサッシン(暗殺者)バグ」と呼ばれるサシガメの仲間である。中でも、遺体を大量に背中に積み上げている極悪の暗殺者が、アサッシンバグの代表格とされる。
主な標的はアリなので、特にこの種類のサシガメは「アントスナッチング(アリを誘拐する)・アサッシンバグ」という通り名を持つ。積み上げた遺体の数は半端ではない。数十はあるだろう。アリは小さいながらも強力な牙を持っており、かなり手ごわい相手だと思うのだが、そんな相手をどうやって倒すのか見てみたかった。
文献によると、アリが足元に寄ってきたところで、体勢を変えてアリの後頭部、首のような部分に口吻(こうふん)を突き刺して仕留めるらしい。小さな幼虫でも、自分の体より大きなアリを仕留めるという。
サシガメが歩いていると、まるで、ほこりの塊が動いているように見える。擬態の一種らしい。たしかにカメムシの仲間には見えない。
暗殺者は普通、それと分からないよう一般人のふりをしているものだ。狙われる側の昆虫記者も、普段は重要人物だと気付かれて騒がれないよう、一般人に紛れ込んでいる。しかし、アサッシンバグはまるで首狩り族のように、暗殺の成果を見せびらかしている。暗殺者というより、西部劇の賞金稼ぎに近い。
日本でもクサカゲロウの仲間の幼虫が、獲物の遺体を背中に積み上げているのをよく目にするが、彼らの獲物のほとんどはアブラムシなどの弱者である。アブラムシはアリと比べると、あまりに弱々しい。いやらしいアブラムシを退治してくれるのは、園芸家にはありがたい限りだが、昆虫界の出来事として見ると、やや弱い者いじめの感がある。それに比べ、アリを倒すサシガメはやはり、アサッシンバグと呼ばれるだけのことはある。
◆昼間のホテル散策路はハムシ天国
朝食後と夕食前、時間があればホテルの敷地内を散策する。昆虫記者以外、誰も歩いてはいない。こんなに涼しげな川があり、滝があり、水遊びしている人々の嬌声が響き渡るサイヨークで、ジャングルトレッキングをしようなどという者は、誰もいないのだ。
だらだらと汗を流して、蒸し暑い密林の中を、虫を求めてさまよう者はゼロなのである。だから、そうした記事はないし、虫の写真など一枚もない。そんな行為は、例えて言えば、ウオータースライダーやジャクジーもある屋外プールに遊びに来たのに、涼しげな水しぶきを上げる人々を横目に、プールの外周を汗みどろでジョギングしているようなものだ。まさに苦行だ。昆虫の道を究めんとする求道者の姿だ。
川沿いのホテルや施設は、互いに森の中の散策路でつながっていので、どこまでも果てしなくジャングルを歩いて行ける。しかし、歩いている物好きな観光客は一人もいなかった。たまに歩いているのは、畑で果物や野菜を収穫するホテル関係者か、周辺のジャングルに住むモン族の人々ぐらいである。
ここは、入場料が必要なサイヨーク国立公園の本部周辺やエラワン国立公園より、自由度が高い。猛獣も多分いないから、毎日安心して虫探しができる。無料の熱帯昆虫園のようなものだ。このようなジャングルに囲まれたホテルは意外に少なくて、貴重な存在だ。
ホテルの敷地内には、カメノコハムシ系の平べったいハムシが多かった。キラキラ系からテントウムシのような少女趣味系まで、より取り見取りでうれしい。そんな人々が存在するのかどうか知らないが、カメノコハムシ・ファンにはたまらないだろう。
日本のハムシには、暑い夏の間は夏眠するものが多いようだが、熱帯で夏眠していたら、一生眠り続けることになる。だから、熱帯のハムシは猛暑の中でも平気で活動している。
春、秋の気候のいい時期にだけ活動する日本のハムシはぜいたく者であり、熱中症になりやすい虚弱体質だ。今後、日本の夏はもっともっと暑くなりそうだから、春も秋もなくなるかもしれない。日本のハムシも真夏でも元気はつらつとなるよう、鍛え直す必要がありそうだ。
ゴマダラオトシブミの仲間もいた。知らなかったのだが、東南アジアのゴマダラオトシブミの仲間は、黒い斑点の部分がトゲになっているのが多いらしい。よく見ると、確かにトゲだらけである。
しかし、このオトシブミはよく飛ぶので近づくのが難しく、トゲだらけの姿を写真に納めるのに苦労する。それでも、全然飛ばないやつをようやく見つけて、接写できた。下羽が少し羽化不全で、上羽からはみ出していたから、恐らく飛行能力がないのだろう。こういう手負いの相手としか対等に戦えないのが、昆虫記者の実力である。